私の牧師室には、漫画『NARUTO―ナルト―』(作:岸本斉史)が全巻そろっています。連載の始まりから終わりまで、リアルタイムでお世話になりました。2007年、神学生時代にタイに行き、現地の神学生4名と一緒に伝道旅行に行きました。その内の男性2名は私と同年代でした。「知っている日本語ある?」を聞くと、『NARUTO』のキャラクター名が沢山出てきて、盛り上がりました。『NARUTO』が世界の人と友だちになるきっかけになったことを懐かしく思い出します。「オロティマル」とか現地の発音も教えてもらって、面白かったです。
『NARUTO』の魅力は、忍術、キャラクター、修行、主人公の成長、等々いろんなところにあると思いますが、
キリスト教的に言うと「「赦し」が貫かれているなー」と、思います。
なぜ、ナルトは自分の里をぶっ壊した「ペイン」を赦せたのか。両親を殺した「九尾」とも自然体で仲良くなりたいと思えたのか。そして最後まで、「サスケ」が生きることをあきらめなかったのか。
それは、第1話「うずまきナルト!!」に描かれています。
落ちこぼれだけど、目立つことをして怒られるナルト。術もろくろくできず、忍者アカデミーを卒業できません。でも、言っていることは人一倍大きく、「火影になって、里のみんなに認められたい!」と言いだす。一方で親がいない環境で育ったことや、孤立からくる寂しい顔も描かれています。
「アカデミー卒業のために」と言う、悪者先生ミズキの口車にのって、ナルトは禁術の書を盗みだし、1人隠れて修行します。ナルトの騒ぎは大きくなり、ナルトの担任イルカ先生も捜索に出ます。そこで、ナルトとミズキ、イルカの三者がはちあうのですが、ミズキはナルトが知らない彼の秘密を明かします。それは、九尾の化け狐がナルト自身であること。木の葉の里をかつて壊滅させ、イルカの両親も九尾が殺したこと。里の皆それを知っているけれど、ナルトだけは知らなかったこと、です。これ、今で言う「アウティング」ですね。人が他人の隠されている一面を一方的に暴露する、他人の足を思いっきりふんづけて快感を得る犯罪ですよ。
ナルトは当然その過去と自分の本性に驚き、傷つき、自暴自棄になります。しかし、イルミ先生は身を呈してナルトを守り、自分は傷つきながら、彼の気持ちを汲み続けます。「そうだよなぁ、ナルト、さみしかったんだよなぁ、苦しかったんだよなぁ」と自分も親のいない環境で育ち、孤独を経験してきたからこその言葉を彼に吐き出すのでした。そして、ナルトが身を潜めた後に、ミズキとのやり取りの中で、イルカは、ナルトのことを本当にどう思っているのかを告げます。「(巨大な力を悪用するのは・・・)バケ狐ならな(するだろう)・・・けど、ナルトは違う。あいつは、あいつはこのオレが認めた優秀な生徒だ。…あいつは、もう人の心の苦しみを知っている…今はバケ狐じゃない。あいつはこの葉隠れの里の…うずまきナルトだ」
なんつー素晴らしい先生なんだ、イルカ先生!!
この言葉をもらって、その後ナルトはどんな苦しい闘いがあっても、他者への赦しの視点を持ちつづけます。それは、心の底にある自分の痛みとか苦しみ、他人に知られなくない闇の部分を知られてなお、それを真っ向から受け止めてもらった経験があったからです。「人の心の苦しみを知っている」と自分の深いところを言い尽くしてくれた人が1人いたから、ナルトは誰かを赦すことを最後の最後まであきらめません。その人の深いところを知って、自分の存在が赦された経験の中で、一緒に生きようとします。それからは、あんまり誰かに認められたいと、ナルトが主張しなくなるのも納得です。1人いれば、十分。でもその1人がいてくれることがとても難しい、とも言えるんですが・・・第一話のあの生きた赦しが、最終話まで貫徹されている!すごい漫画なんです、『NARUTO』は!岸本先生は、『聖書』を読んでいたのでは?と勘ぐりたくなります。
イルカ先生は、忍者的な力で言うと、すぐにナルトに追い抜かされてしまうんですが、この辺りもまた、いいですよね。その人の人生の先生であるということは、外面的な力の大小によらない。弱いけれど、カッコいい!こんな先生がいるんだ!こんな牧師になりたいんだ!と思わされます。
イエス・キリストによる「赦し」と『NARUTO』における「赦し」、すっごい酷似しているなー、と。
教会でもいつか「ナルトーク」ができたらいいなー。
あ、いや、「ナルトーク、やるってばよー」☆
パスタ― ジョシュ