コラム*いのちの水

2009年 3月週報掲載分
3月29日掲載
−いのちの水 (659)− 「罪人を招くキリストを見た」 牧師 山田幸男
 少年院で『薬物依存の恐ろしさ』という講演を少年たちと一緒に聴く機会がありました。講師は薬物体験者3名。かつて、シンナー、大麻、覚醒剤を経験し、今は民間施設でリハビリ中の元受刑者。それぞれの体験を語りました。
  薬物に溺れる共通項がある。・それは知り合いからまわって来る。・いつでもやめられると思って始める。・気がつくと常用者になっていた…。薬物依存が、体の健康と心を壊す。社会的関係を壊す。最後は魂をも損なってしまう。
  「クスリ(薬物)は傷害罪や窃盗罪へつながる。被害者をつくってしまう。直接傷つけた人だけで済まない。自分も傷つけ、家族や友人までも傷つけてしまう。これ以上犠牲者を増やさないためにオレらの恥を話す。クスリをやめろとさんざん言われた。でもやめなかった。その結果が泥沼の人生。今は自分が変わらないと何も変わらないことがよく分かった。君たちも、自分のしていることに気づいて変わって欲しい。仲間の誘いを断る。自分に責任を持てる人間になって欲しい。もし出来なくても諦めるな…オレたちの所へ来なさい…。」
  少年たちと同じ目線の講師に、罪人を招くキリストが重なって見えました。
3月22日掲載
−いのちの水 (658)− 「賀川豊彦献身100年」 牧師 山田幸男
 キリスト教社会運動家として広く知られる賀川豊彦(1888〜1960) の『献身100年を記念する礼拝』が2/28東京の青山学院で行われたこと を先週届いたクリスチャン新聞(09/03/22号)が報じていました。
  賀川豊彦は、明治・大正・昭和にかけてキリストの愛を実現するために生涯 をささげた献身者です。妾(めかけ)の子として生まれ、16才で宣教師から 洗礼を受けると、直ちに伝道者になる決心をしたという。スラムへ身を投じ、 「福音宣教」と「社会活動」を混同せず、どちらかに片寄ることもなく、両方 を筋を通して貫いた類いまれな人物でした。神戸の貧民街での伝道はじめ、第 二次大戦後の生活協同組合運動などは、その後の日本社会に大きな影響を与え ました。賀川の精神は、教会に留まらず、今も各方面で受け継がれています。  
 「神は貧者のために奮闘している。だから私も奮闘しないでおられようか」  
  「贖罪(しょくざい)愛の実践、それは“尻ぬぐいの神学”である」  
  賀川の信仰は刺激的です。強い個性を主張しても、どんなに有名になっても 所属教団には常に協力し、非難せず、自分の責任を淡々と果たしたという。
3月15日掲載
−いのちの水 (657)− 「失敗しても希望がある」 牧師 山田幸男
  失敗したとき、昔の人の『格言』が頭に浮かびます。『転ばぬ先の杖』『備えあれば憂(うれ)いなし』。『格言』には重みがあります。素直に聞くべきだと、失敗してつくづく納得させられます。 
  信仰生活の失敗もよく似ています。「もっとよく祈ってからにすればよかった…」「あのとき御言葉に従えばよかった…」。痛い思いをして、初めて悔い改めるのです。信仰があっても生身の人間です。たまには失敗もします。信仰の友が、「失敗しない人などいないから…」と、励ましてくれます。それでもやはり落ち込みます。失敗はイヤです。できれば失敗はしたくありません。
  ところが、失敗にもよい点があります。失敗すると人は注意深くなる。失敗から新しい発見をすることもある。長い目でみれば『失敗は成功へ至る一つのステップ(過程)である』とも言えます。楽観的すぎるという人もいますが、キリストに従う人は悲観しない。日々悔い改めて、朝ごとに新しくされるからです。たとえ失敗しても私たちは“主のもの”です。ここに立てば“希望”がある。《神に従う人の根は揺らぐことがない》(箴言12:3)とあります。
3月8日掲載
−いのちの水 (656)− 「応答する“ろば”」 牧師 山田幸男
  黙想書の例話の抜粋です。その昔、ローマの教会での出来事です。
  『ある執事が、ローマ政府の役人から「教会の宝をわたせ!」と迫られた。彼は「教会の宝はこれです」と言って、貧しい者や体の不自由な者を連れて行った。役人は怒って執事を殺してしまった。教会が宝とするのは、これらの人々だ。これらの人々が集まって来る教会が、イエスが生きておられる教会だ。そういう人々が来なくなったら、それはイエスのいない教会である。物売りや両替場が繁盛してる神殿には、こうした貧しい人々は近づけなかった。…立派な神殿があっても、本当の礼拝が守られなければ意味がない。…儀式や形式に一生懸命になり…内容を忘れる…これが宗教を堕落させる誘惑である…』。
  受難週最初の日、平和の君イエスは、不格好な“ろば”に乗り、神殿へ入場した。軍馬のような勇ましさはない。“ろば”はどうみても見劣りする。
  ところが、イエスを乗せた“ろば”は拍手喝采を受けた。間違えないでください。人々が待っていたのは“ろば”ではない。イエスです。《主がお入り用なのです》。レント(受難節)に、主の招きに応答する“ろば”は幸いです。
3月1日掲載
−いのちの水 (655)− 「レントをどう過ごすか」 牧師 山田幸男
  今年のイースター(復活祭)は4月12日です。伝統的な教会暦では、イースター前の日曜日を除く40日間を“レント(受難節、四旬節)”と呼び、キリスト者は自身を省み、悔い改めの祈りを捧げるとき、とされています。
  昨今のプロテスタント教会は、イースター前の1週間(受難週)だけ“キリスト受難”の聖書箇所を読み、慌ただしく“復活祭主日”を迎えます。教会暦にこだわらない自由さが、却ってキリスト受難の重さを見失わせていないか。
  私たちの拠り所である聖書、特に新約四福音書は多くのページを割いて“受難週”の出来事を伝えています。わずか1週間悔い改めるだけで、心にある迷いから解放されるだろうか。御言葉の確かさを確信出来るか。心が燃えるか。
  クリスマスの前には“アドベント(待降節・4週間)”があります。信徒も世の人々も、一緒に“キリスト降誕”を心底喜ぶ準備をします。絶好の伝道の機会になります。一方、“イースター(キリスト復活)”は世間に定着せず、伝道につながらない。では、あなたは今年の“レント”をどう過ごしますか。 
  寒い冬も峠を越し、春が近づいています。すべてが新しくなる季節です。
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